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静御前と神泉苑

@神泉苑と雨乞い
 神泉苑は弘法大師空海が天長元年に雨乞いを
修されて以来、天皇の行幸される遊宴の場としての
存在から、祈雨の霊場としても認識されるようになった。
 これ以後、多くの真言僧によって祈雨の修法がなされた。

A小町と雨乞い
 平安時代のある年、日照りが続き朝廷も祈祷などに
手を尽くしたが験が見えず、この上は和歌の徳をもって
龍神を感応させ奉る外あるまいということになった。
 そして詠者として当時第一の歌人として小町が召されて、
神泉苑で雨乞いの歌を奉納することが命ぜられた。
祈雨の壇に登った小町は次の歌を詠んで奉納した。
ことはりや ひのもとならば
  てりもせめ
     さりとてはまた
      あまかしたとは
通釈 理屈から言ってこの国が『日の本』だから
日照りになっても仕方ない。しかし、世界を『天が下』とも
言うのだから雨を降らせてくれないだろうか。

B静御前と雨乞い
静御前は雨乞いの舞を神泉苑で舞ったと伝えられる。
静御前と言えば「義経」とのロマンスが有名です。
「義経記」は静御前の雨乞いの様子を次のように伝えます。
一年百日の旱の候ひけるに、
賀茂川・桂川皆瀬切れて流れず、
筒井の水も絶えて、國土の事にて
候ひけるに、次第久しき例文を引いて
『比叡の山・三井寺・東大寺・興福寺などの
有験の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて
仁王経を講じ奉らば、八大龍王も
知見納受垂れ給ふべし』と申しければ、
百人の高僧貴僧を請じ、仁王経を
講ぜられしかども、其験もなかりけり。

(本中が日照りとなって人々が苦しんだ時に
(一説では寿永元年(1182年)7月)、
慣例によって高僧が神泉苑に招かれて
経を読んで雨を祈ったが効験がなかった)

 又或人申しけるは、
『容顔美麗なる白拍子を百人召して、
院御幸なりて、神泉苑の池にて舞はせられば、
龍神納受し給はん』と言へば、さらばとて
御幸ありて、百人の白拍子を召して
舞はせられしに、九十九人舞ひたりしに、
其験もなかりけり。

(みめ麗しい白拍子を神泉苑に百人集めて
後白河法皇の行幸を仰ぎ、九十九人が
舞って雨を祈ったが効験はなかった)

『静一人舞ひたりとても、龍神知見あるべきか。
而も内侍所に召されて、祿重き者にて候に』
と申したりけれども、『とても人数なれば、
唯舞はせよ』と仰せ下されければ、
静が舞ひたりけるに、

(あと一人が舞うくらいで効験があるだろうか
という意見もあったが静御前に舞わせてみた)

 しんむしやうの曲と云ふ白拍子を、
半ばかり舞ひたりしに、みこしの嶽、
愛宕山の方より、黒雲俄に出で来て、
洛中にかかると見えければ、八大龍王
鳴り渡りて、稲妻ひかめきしに、諸人
目を驚かし、三日の洪水を出し
、 國土安穏なりしかば、さてこそ静が舞に
知見ありけるとて、『日本一』と宣旨を
賜はりけると承り候ひし」と申しければ、
鎌倉殿是を聞召して、「さては一番見たし」
とぞ仰せられける。

(静御前が舞うとにわかに雨雲が現れ、
三日間大雨が降り続いて国土は安穏になった。
 法皇は感激されて静御前を『日本一』と称された。)

C義経、静を見そめる
静は源義経(幼名:牛若丸)に水干に立烏帽子
という舞姿を見そめられ、側室となる。


画 達富弘之氏(一部を掲出)






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