法成就池
法成就池(ほうじょうじゅいけ) 太古から存在した大池で、平安京遷都以後、歴代天皇が遊宴を行った。 天長元年(824)弘法大師祈雨の際に勧請した、善女龍王様が池に棲むと言われる。 |
法成就池の歴史
神泉苑の池は、造営当初から存在し、敷地北東部の湧水「神泉」から遣水が注ぎ込み大池を満たしていました。「法成就池(ほうじょうじゅいけ)」という名は、日本中がひでりの際に、弘法大師空海が北天竺より善女龍王様をよびよせ、祈雨の修法を行い成就させたことに由来します。
1330年頃に編纂された「徒然草」第百八十段にも「さぎちやう(左義長)は、正月に打ちたる毬杖(ぎっちょう)を、真言院より神泉苑へ出して、焼き上ぐるなり。『法成就の池にこそ』と囃すは、神泉苑の池をいふなり。」とあり、鎌倉時代以前から呼ばれていたことが分かります。
淳和天皇(在位823〜833)は神泉苑の池での釣りを好まれていました。『日本紀略』大同5年(810)6月にも「召文人令賦釣臺詩釣台」とあるように、東西二ヵ所に釣台が備わっていました。
仁明天皇は、神泉苑で隼(はやぶさ)や鷂(はしたか)を放ち、池の水鳥を捕らえさせました。
清和天皇の代では、ひでりの際には僧侶による請雨経法が修されたり、竜舟を池に浮かべて雅楽寮の楽人が鐘鼓をうち歌舞を奉納して雨を祈りました。また、祇園祭の発祥となる御霊会も八六三年に修されるなど国家的にも宗教的な霊場となってきたことを示します。
またこの頃になると、京の人家の井戸や泉が枯渇した際には神泉苑の門を開け、人々が水を汲めるようにするなど、旱魃の際の引水が慣習化していきました。
このように歴代天皇は釣りや舟遊び、鷹狩、観魚などの宴遊や、請雨の霊場として儀式を行い、また善女龍王が棲む池として真言僧が雨乞いを行う重要な地でありながら、人々の田畑を潤す水源にもなっていました。
江戸時代には、徳川家康が二条城を築城する際、神泉苑の湧水を利用して、 城の濠(ほり)を満たすこととなり、神泉苑の境域の北部が二条城に 取り込まれることとなりました。